(一社)楽心館 氣と丹田の合気道会

稽古日誌 2013

71歳 入門10年目

指導員をする

2013年1月26日 717日 「合気上げ」の小手はなぜ方向が「上」になるのか 

 ◆Cさんと座り技「合気上げ」の稽古。Cさんが取りになり、小手を押さえた私の両手を上げようとするが、私の肩の付け根ではなく、頭方向へ持ち上げているので掛からない。私が取りになって試みると同じように「持ち上げている」と言われる。上げるときにぶつかりを感じていたので、力みと上げる方向がズレていたようだ。その後、Bさんと稽古。私が取りのとき、Cさんとの稽古時でのミスを訂正して試みる。
Bさんはのけぞるように後方へ崩れる。見た目には先生との稽古時と同じような崩れ方に見えたが、本気になって押さえていなかったようだ。

 ところで、掴まれた小手を肩付け根に向けているのに、なぜ方向がズレて上に挙げてしまうのだろうか。座って向き合い、両膝に置いた取りの手首を受けが押さえたとき、押さえ込まれた取りの手首と掴んでいる受けの腕の付け根までの距離はおよそ50㎝程度。僅かな距離だ。なのにズレが出来る。稽古でも方向が「上になっている」と指摘を受ける人が多いと思う。私も未だに方向が『上だ』と先生から指摘される。
 わずか50㎝ほどの距離なのに、永年稽古をしてもズレを訂正するのは難しかった。
が、『掴まれた甲から挙げる』と教わって以来、方向のズレは訂正できるようになってきたが、まだ正確さが足りない。方向がズレるのは両眼からの視線で受けの腕付け根を観ているので、上げようとする瞬間、手の甲への意識が飛んでしまうためではないか。しかも、掴まれている小手を上げたい思いが力みとなり、正確性が薄れ、力が強いとか、方向が上になっていると指摘を受けることになる。手の甲と教わっていても実践していなかった。しているつもりでも、つもりで終わっていた。
  手の甲に氣を置き、甲から相手の小手・上腕部を通して肩付け根に向かうことで、方向のズレを無くす、が先生の言われる“甲に気を置く”との意だと考えている。そこで、手の甲に目=目線を置いたらどうかと思い付いた。手の甲に置いた第三の目から腕付け根を観る。両眼からの目線と比べると角度が狭くなり正確性が高くなるのではないか。目線というイメージできる言葉で具体性が増すのではないか。

1月30日 718日 手の甲に目線を置いてみたら?

 ◆前回の稽古で思い付いた、手の甲に第三の目=目線を置いた「合気上げ」を稽古で試みる。目線だけでは技は掛からないから、軸を立て、力まないことに気を付けながら、複数の人に試みたところ効果があった。正し先生には通じない。先生は、私の『癖、動きはすべて分かっているので私には掛からない。ただ、手の甲に目線を置く
考え方は好いのでは』。「合気上げ」に関しては『程度が低い』。まだまだだ。

2月27日 725日 小さな動きで掴んだ手を外される
 

◆今日は「手解き」。先生の小手を片手取りすると、スルッと横に開いて外される。過去にかなりの合気道の技を教わっていたが、その中でも動きが小さく柔らかで、肘を中心に使う「手解き・外」と似ているが、体験したこの技は肘の動きは少なく、掴まれた小手をほんの僅か動かすだけ。先週、一度体験したのだが、今日と同じでアッと思うまもなく外されてしまい、何をされたのか分からなかった。改めて私の小手を外す先生の動きを観ていると、上下動はしていない横だけの動き。しかも大きな動きがない。動きが小さいので対応できない。
 2度目の今日、見よう見まねで掴まれた小手を動かしてみる。何度目だったか、スルッと外れた。『今ので好い』。私は、先生が掴んでいる掌をかなり緩めているように思えたので、そう告げると『素直じゃないから。今の動きで好いんだ』。と言われても、我が手の動きの軽さで自分が納得できない。再度試みると同じ結果だった。この時は右手からで、左手は外すことができなかった。『左手は良くないが、右手の動きを次回まで覚えていられるかな。すぐ忘れるから』。確かにそれが問題。

 

4月27日 740日 痛みも手を抜かれることで薄れる 

 ◆片手取りした受けの小手に手刀を当てて崩す技。掴んでいる手を動かさず、手刀だけで袈裟に斬ると教わっていた。今日も同じように動いてみたが、痛いと言われる。先生の動きは、掴んだ小手をやや抜いているように見えたので、掴んだ小手を手刀で斬り、同時に左手をやや抜いてみる。好いようだ。『痛みも手を抜かれることで薄れる』そして『片手だけでなく両手を使うことだ』

 

5月15日 744日 ハーッと息を吐くと技が掛かる?!

 ◆自由稽古の時間、Bさんから「技を掛ける前にハーっと大きく息を吐くと技が掛かる」と言われる。そこで、Bさんが取り、私が受けになって「肩取り二教」を実践した。掛かっている。息を大きく吐くことで力みがなくなる(少なくなっている)状態になる。ただ、ハーっと大きく息を吐いても、それだけでは力みを無くすことにはならない。
 たとえば、温泉へ行って大きな湯船に浸かったとき、気持ちの良さにハーッと息を吐くことがある。ゆるりとした気持と開放感でいっとき浮き世のことが忘れる。リラックスした緊張感がない状態が出来れば効果はある。大きく息を吐くとは、稽古で行っている“一瞬の緩み”を誇張した動きで実践的ではないので、慣れてきたら小さく息を吐く練習をすることが必要。
 どのようなときに力みを引き起こすか。プロ・スポーツの選手でも、勝ちたい気持が出て力んだとか、負ける理由がない相手なのに力んでしまった…などの言い訳をすることもある。日常生活の中でも使うことある。トイレの中でも大きい物が出ないときは、力んで頑張ることがある。これは力まないと、出るものが出ないから…
 稽古では、相手に技を掛けようとして引き起こす力みや、掛けたい気持から出る力みなど、いつもとは違った精神状態になると力みが出る。プロの選手でも力むのだから、我々が稽古で力んでも当たり前と思えば力むことはないだろうが、それほど簡単ではない。例えば、経験の浅い人との稽古ではあまり力まないと思う。掛かるだろうとの気があるからだ。やはり、基本を積み重ね、脱力する=一瞬の緩み、柔らかな動きなど、稽古で実績を作って試みるしかないと思えるが。だが、しかし。それで力みがなくなればプロは悩まないだろう。

 

6月12日 752日 剣は物打ちに気を乗せて振る

 ◆剣術で斬るという動作は「剣の物打ちで斬る」と教わり、接点の稽古では「物打ちから斬るつもりで」、なんてことを私は初心者には言ったりしてきた。では、「物打ちで斬る」とは具体的にどうしていたかと言えば、木刀の切っ先三分所から剣を振るという漠然としたことだった。
 今日の剣術稽古で『剣を振るときは、物打ちに気を置いて振る』と先生。漠然と物打ちから振るのではなく、気を置く、あるいは気を乗せて剣を振る。早速、剣術の「斬り落し」や「斬り返し」で、教わったように剣を振ってみる。『効いている』と
言われる。棒術でも三分所に気を乗せ(気を置く)て打ち込むと効果が違う。意識的に気を置くことは剣術でも体術でも同じであることを確認。「物打ちの気を乗せて振る」とは大きなヒントだ。

 

6月25日 臨時の指導員を努める

 ◆昨日の夕方、カルチャーセンターの合気道講座(女性だけの合気道)担当者が急病なので、臨時の指導を頼みたいと石川先生から依頼され、今日(火曜日)江東区北砂のショッピングセンターへ出かけた。稽古は午後7時からと聞いていたが、始めて行く場所なので6時過ぎに会場に到着。受付で受け取ったメンバー表には4人の参加者が書かれている。稽古場は30畳程の部屋にマットを敷いた特設教室。向かい側はフラダンスの講座で、踊っているのが見える。
 開始時間の7時になったが、どなたも来ない。通路側はガラス張りで、歩いて来る人が分かる。あの人が参加者かなと思っていると、フラダンス教室に行ってしまう。
ひょっとして皆さん休み? 8時半まで時間つぶしを考えていたら、7時半を過ぎて一人参加。「最近は7時半頃から皆さん集まって始まるのです」。早速稽古を始める。稽古内容はとくに決まっていないとのことなので、基本技から初め、8時頃には全員そろったので、護身術が中心に剣術稽古も行い9時に終了。皆さん怪我もなく無事終了した。

 

7月17日 759日 楽心館Tシャツ

 ◆2か月程前に石川先生から、カナダへ出張に行くことになり、土産としてTシャツを持って行きたいのでデザインを頼みたい、との依頼を受けていた。数点創った候補の中から先生に選んでいただき、決まったのは、一教入り身をイメージ的にデザインしたもの。私はデザイン関係の仕事をしていたので、趣味でTシャツ(楽心館の楽をイラスト風にデザイン)とか、トレーナーなどを創ったこともあるので、デザイン制作に集中していた数週間は楽しい時間を過ごせた。

仕事に携わっていたとき、アイデアとかデザインとかの着想は、会社への行き帰りに乗る地下鉄やJRの車内で練ることが多かった。車内では座らず立っていた。一定のリズムで揺れる電車の振動が脳に刺激(創作力)を与えるようで、私には合っていた。とは言え、混雑した車内では集中できない。
 合気道に入門当初、帰りの車内では、教わった手順を思い出しながら過ごすこともあった。最近は、技が掛からなかった原因を考えたりすることもあるが、大方はボーっとしていることが多い。座るときはリュックを膝に乗せる。立っているときはドア横の網棚か足下にリュックを置く。物忘れが酷くなっているので、荷物は身体から離さない。昔、仕事で預かった原稿を忘れて大汗を掻いたことがあるからだ。

 

8月14日 767日 指一本で崩される 

 ◆先生が膝に乗せた左手首を私が右手で押さえる。が、後方へ身体が弾かれるように崩される。私が試み、右・左に払うが先生の手首は動かない。『単に手首を反発して腕力で押し返しているだけ。だからぶつかりが生じている。繋がりを意識していないからだ』。この技を体験して思い出したことがある。一昨年、長尾全祐先生の大東流柔術の講習会に参加したときのこと。長尾先生が参加者に人差し指を掴ませて崩す技を行い、私も体験させてもらったことがあった。その経験を思い出し、石川先生に同じ技を見せていただいた。 私が左手で先生の右人差し指を掴む。結果は、膝に乗せた手首を押さえたときと同じで、小手だけでなく身体ごと後方へに崩される。止めようがないのだ。『長尾先生の技と同じかどうかは分からないが、小手を掴まれた時と同じ崩しだ』。技を受けた感じでは、甲に沿って指を真っ直ぐに伸ばした状態で私の中心に入るように思えた。
指が折れそうでとても体験したいとは思わなかった。

8月31日 771日 突然の肉離れ

 ◆月曜の朝、起床すると背中が痛み、ベッドから起き上がるのも一苦労で、上半身が左右に動かせない、後背ができない、顎を突き出した前屈み状態。針灸医院に連絡して治療を受ける。背中の筋肉疲労かと思っていたが、「肉離れ」だとのこと。翌日になっても後背することができず稽古は休んだ。私も70を超えている。体内の部品が古くなったからといって取り替えは出来ないから、大切に使わないと。
 ◆私が小学1年の時、片足を引きずって歩くのをおかしい、と思った母に連れられて病院へ行き、その日の内に、右足を足首から太腿までギブス(石膏で固定され、膝は曲がらない)で固められた。痛みはなく原因は不明。半年後(その間学校は休んだ)、やっとギブスが取れたとき、右足が左足より1.5㎝短いが、この程度なら目立たないから、と医師に言われた。
 10代中頃から20代は病気もせずに過ごせたが、30代でまた病に罹り40日ほど入院、40代の最後で胃ガンを患い開腹手術となったが、幸い早期発見で回復した。50代からは大きな病に罹ることなく過ごせている。そして、60代で始めた合気道は、風邪を引く程度で、この年になっても合気道に通っている。弟が言っていた。「若い頃は俺のほうが元気だったが、今は兄貴の方が元気だ」

9月7日 773日 中指、薬指を作用させるとは

 ◆小手の合気:片手を拳にした状態を崩す技。私は相手の拳を包むようにして当てた、掌からの崩しだけを実践してきた。甲側から当てた親指と掌側に当てた中指・薬指は、相手との繋がりと考えていたので、当てているだけ。『掌側に廻した中指・薬指を作用させる』と先生から指導を受けたが、中指・薬指をどう作用させるのか、残念ながら分からなかった。今後、いろいろ実践してみたい。それよりも、『繋がり感がない。やっていない』と厳しい指摘を私は受けた。まず繋がり感。

9月21日 777日 指導員を受ける

 ◆石川先生から、6月に行った北砂カルチャーセンターの臨時指導を再度依頼されて先日行ってきた。同時に、今後も指導員として出来ないかとのお話もその時あった。毎週となると体力的にきつい面(現在72歳)もあり、どうするか、私も迷った末に、指導員を受けることになり、以来、週1回カルチャーセンターに通っている。
 指導員を受ける前、指導員の仕事は何かを考えてみた。師から教えていただき、私なりに覚え、身に付けた合気道をカルチャーセンターの参加者に伝え、少しでも身につけてもらう。それには、まず、稽古を楽しんでもらうこと。明るい雰囲気を維持すること。稽古に通うのが楽しみになれば最高。そして怪我をしないこと。といった目標を立てた。
 ◆私は楽心館に入門当時、90分間の稽古をすると、息が上がるし緊張の連続で疲れたが、つまらないとは思わなかった。週1回の稽古は時間の経過が早く、半年ほど経つと面白さを感じるようになっていた。私は何から面白さを感じたのかと言えば、知的好奇心が触発されることではないだろうか、と思っている。
 例えば「下げ手」だ。相手は下から小手を掴んでいるのに、なぜ崩せるのか。どうしたら崩せるのか? 私は興味津々で稽古に通った。ただ、合気道は稽古の成果が直ぐに出る武道でもない。掛からないからつまらない、なんて思わず、掛からなかった
ら、掛かりそうな技から取り組むのも好いと思う(私は上達は遅いが手解きが好きだった)。人それぞれ違いがある。カルチャーセンターに参加している皆さんが、それぞれの面白さ・楽しさを感じられれば幸い。

11月23日 791日 木刀袋を指して「釣りに行くの?」

 ◆私は稽古に出かけるときは、木刀1本を入れた木刀袋(友人に縫製依頼した)を持参して行く(居合をしている頃は居合刀と木刀が入る袋を持参していた)。そのためか、乗車駅の高島平駅のホームで電車待ちをしている時や、乗って座っている時に、木刀袋を指して「釣りに行くのか?」とか「剣道をしているのか」と聞かれることがある。「いや中身は釣り竿じゃなく木刀」「剣道ではなく剣術」などと、のんびりとした遣り取りをして一時の時間を過ごす。話しかけて来る人は男も女も中高年者。ただ、山手線の車内や駅で聞かれたことは一度もない。

私が住んでいる高島平は環七の外側で、駅から15分も歩けば埼玉県との境界、荒川に着く。昔は湿地帯で、幕末の砲術家高島秋帆が大砲の実射演習を行った所。その後、住宅公団が大きな団地を造成して高島平と名付けられた。入居した頃は子供や若い人が多かったが、時代が流れ、今は高齢者が過半数を超えているが、下町的な気さくな人が多く、昨日も近くの緑地帯を歩いていたら、途中で見かけた人に再会したので話しかけたところ、気軽に応対されて、しばしの立ち話。ローカル色がある土地柄だ。
 ◆昨年、中野の稽古帰り、新宿から山手線に乗り変えて巣鴨に向かう車内。私はリュックを足下に置き、木刀袋は床に起てて持ちドアに向かって立っていた。高田馬場に着き、乗客の乗り降りが終わりドアが閉まる寸前、車内にいた乗客が飛び出し、降り際に脚が木刀袋に接触して倒れ、3人掛けの席の前に転がってしまった。
 木刀袋に接触した乗客は出て行ったまま。私が転がった木刀袋を拾い上げようとしたら、端に座っていた中年の女性から「あやまりなさいよ!」と大声で叱責された。
木刀袋は脚には当たってはいないし、脚の間近に落ちたわけでもない。「失礼」と言って拾い上げ、元の位置に戻った。電車は次の駅に向かっていた。


11月23日 791日 剣の打ち込みに速さは必要ない、正確に相手の正面に打ち込む


 剣術「斬り返し」:私が上段から打ち込むと、打ち込んだ木刀がポンポンと跳ねる。物打ちから気を通し、ゆっくりと打ち込んでも、強く打ち込んでも同じだ。
『跳ねるね。剣が軽い。なぜ跳ねると思う』と先生。なぜ跳ねるのか? 先生は『こうして剣に身を入れるのだ』、と上段から打ち込みやや前傾する。振りはゆっくりだが、重い打ち込みで、ずしりと私の身体に響く。
『打ち込みに速さは必要ない。正確に相手の正面に打ち込むことだ。このような打ち込みが出来てこそ、合気となる稽古になって行く』。打ち込みは、『正確に正中線を捉えていれば、仕掛けたほうが勝が、そうではないと跳ね返され崩される(2008.8)』

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