(一社)楽心館 氣と丹田の合気道会

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創立者 経歴

Our Story

石川 智広

武道を始めた きっかけ

石川智広(イシカワトモヒロ) 合氣道家 1960年(昭和35年) 静岡県出身の両親の元、東京世田谷区生まれ。武道に始めて接したのは中学時代に、成城警察に設けられた柔道教室へ通ったことである
その後も趣味的に継続することで3段まで昇段した。

武道への感銘 合氣道を選んだ理由

中央大学法学部生であった1981年、マーストリヒト柔道世界選手権65kg級優勝の柏崎克彦(当時30歳)の試合を見て深く感銘を受けた。誰でもあるように、当時の石川は青春の生きる価値に苦悩した時代を過ごしていた。ドイツ人弓道家オイゲン・へリゲルによる弓聖 阿波研造を紹介した書籍「弓と禅」を読み、阿波の至った境地と指導法に魅力を感じていた。柔道をしていた経験と禅に触れた体験。それらがおぼろげに繋がったのが、先ほどの柏崎克彦の試合と人物の立派さであった。

そして大学卒業時には、日本の伝統文化を武道で伝えることを、人生の中心に置く決心をした。そのような中で合氣道を選んだのは、本質は競技武道でないことが大きく、柔道とは違う層の人々へ貢献できる可能性を感じたからである。そして夢は、阿波研造の境地へ近づくことであった。山頂へ至る道に様々あるように、弓道に拠らずとも善いという考えに至り、合氣道を選択した。

社会経験をしてから内弟子へ

 

しかし現実には、進路について周囲の激しい反対に遭い、志を曲げざるを得ず22才から3年間は徴税吏員として公務に就いた。当時は望まぬ仕事ではあったが、今に考えるとこれが後に人生の幅を広げることになった。東日本大震災、その後の影響下において道場運営が危機的になった時期、これらを乗り越える原動力となったのはまさに当時の望まぬ仕事からくる経験によるところが大きい。

25歳(1986年)から30歳(1991年)まで籐平光一先生(心身統一合氣道創始者)の内弟子として、藤平光一先生・丸山維敏先生(合氣道・唯心会)の指導を受けた。30歳から内弟子卒業生として、心身統一合氣道の道場長を勤めた。楽心館という名称は、この頃から使用しており、平成5年5月5日を楽心館の創立記念日としている。35歳(1995年)で心身統一合氣道会を辞職。

 

「合氣」の根源を探った

温故知新。合氣を探求する場合、その根源を知り原則を知ることが第一義と考えるに至り、そのために古流を通じた、その流派の術と考え方を研究した。その後、佐藤金兵衛先生(大東流山本角義派教授代理、浅山一伝流大東流起源説を唱えた方)が創立、会長をつとめた国際柔術連盟に学ぶ。のちに種村匠刀先生が会長になり、指導を受けた。1999年、佐藤先生逝去に合わせて退会。その後、北海道苫小牧市の長尾全祐に師事し、継承者の平岡祥淑代表の大東流山本角義派で指導も行う。

石川智広の考える 合氣

これまで「剣術・居合術・柔術・棒術に通底する真理」を求める道程で、合氣道⇒大東流山本角義派⇒浅山一伝流と、合氣の淵源を遡って稽古してきた。その探求の旅は今も続いている。楽心館で合氣について説明する際には、指導者や技法のカリスマ性・神秘性を排している。基本は中学生でも理解できる物理の話―振り子運動・定滑車運動・第二梃子の理―を使い、正中線・丹田力・氣力を解説している。

 

楽心館の「氣と丹田の合氣道」とは、阿波研造のような高度技術と心法を集約した自然体で、そよ風が吹くような何事もない動作で相手を崩せる心身の養成による「不動不争の合氣」の会得としている。武術的な自然体は、日本刀の様に剛柔二重構造であるとし、伝統的な型稽古を重視している。楽心館の稽古では、守「鋳型的基本稽古」・破「剣体一致の身体主導稽古」・離「氣剣体一致の心氣主導の稽古」と段階的にレベルアップすることであり、それらに反する演武競技や試合稽古は一切行ってない。合氣的な技法の修錬では、剣術あり古流柔術の型を前提としているため、既存の合氣道愛好家からは型破りとされており、理解されない一定層もある程度いることを認識している。

 

2025年5月64才にて、楽心館代表を平康之(たいらやすゆき)へ引き継ぐことが決まっている。

石川智広 武道歴

以下、石川の武道歴(3段以上に至ったものだけを記載)。
講道館柔道3段
心身統一合氣道4段
氣と丹田の合氣道会楽心館 主宰
会津藩伝継小野派一刀流剣術 教授代理 (平岡祥淑 門下)
大東流合氣柔術山本角義派 教授代理 (平岡祥淑 門下)
無限神刀流居合術 教授代理 (平岡祥淑 門下)
浅山一傳流 指南 浅山理法流武術 (宮本隆正 門下)
現在は浅山一伝流・小野派一刀流剣術中西派五行之型・直心影流法定型を研究中