Our Story
観る・見る・診る、愛
石川 智広
「観る・見る・診る、愛」
観見(かんけん・肉眼心眼の意味)二つの眼を研け、とは武道の教え。(テキスト13ページ) 心眼とは遠い目標ですが、生活の中で愛情について感じたことを、書きたいと思います。
個人の生活史でも、社会史でも、既視感という体験があります。「これは、過去にあったことが繰り返されている気がする」という場面です。
45歳の私にとっては40年も昔のことでした。あるデパートのおもちゃ売り場で、夢中になっておもちゃをみていました。ふと気がつくと、一緒にいるはずの父の姿がありません。その時、自分が迷子になった恐怖を感じました。私は「お父ちゃん!お父ちゃん!」と声を上げて、周りを探していました。すると私の背後から、「ここだよ!」と返事がします。真後ろをみると、父が階段に坐っていたのです。私は安堵とともに、とっさに照れ隠しをしました。「ほら!あそこ!」と、まったく関係のないほうを向きました。柱のところに象だかキリンだかの、大きな人形が飾ってあるのを指差したのでした。
さる5月、小学5年生の息子の運動会がありました。雨のために二回順延となった結果、火曜日の運動会です。土・日だとみることが出来ないので、私には幸いでした。またさらに偶然ですが、父(80歳)も都合がついて応援に来てくれました。年齢なりに病気を患っているので、敬老席のテントの中での観覧です。私はテントの後ろの方に立って、父と運動場の両方をみています。
父は疲れたのでしょう、机の上でうたた寝を始めました。しばらくして眼を覚ますと、喉が乾いたのか、渡してあったペットボトルの蓋を開けようとしています。しかし、何度やってもそれを開けるだけの力が出ない様子でした。私は手を伸ばして、蓋を開けました。父は「なんだお前、そこにいてみていたのか?」と言いたげな顔で振り向きました。私は「これから蓮太朗が出るよ」と、入場口のほうを指差しました。父は「観えるから大丈夫だ」と、答えました。
私には、白内障の手術をした父に、孫の姿が肉眼で物理的に観えるのかは疑問です。これは父の照れ隠しでしょうか?しかし心では、見えるのでしょう。「お爺ちゃんは、ここだよ!見ているよ」と、メッセージが届くこと、これが大切なのかもしれません。視点を息子の立場に置き換えてみましょう。
どのような時に抱擁感・愛情を、感じるでしょうか?「ここだよ、ここにいるよ」という物理的存在感と、心的レベルにおいて見守ってくれているという実感、この二つが大切ではないでしょうか?
今日さまざまなライフスタイル・家族の形態があります。祖父母があって両親が存在するというのは、保守的な家族形態などと言われる時代がくる様相です。しかし基本は、お子さんの肉眼心眼二つの眼において、家族の「ここだよ、ここにいるよ」がみえること、大切だと思います。
父の健康状態を診ると、来年息子が6年生としての運動会を、こうして家族で観覧することは無理かもしれません。これから先、父が実在しない時を迎えたとしても、存在感は私にも息子にも残ってゆくことでしょう。そんなことを考えて、テントの敬老席テントの後ろに立った私は、思わず帽子で瞼を覆ったのでした。