(一社)楽心館 氣と丹田の合気道会

2000年
10月28日

10周年にあたり

石川 智広

今年で楽心館10周年を迎えさせていただきました。

天地の恩・父母妻子の恩・これまで出会った皆様方の恩、それらの賜物と思っております。ありがとうございます。

10年の年月も、一日一日のお稽古の積み重ねです。そのことの意味を、改めて考えさせることがありました。紹介させてください。

表紙と裏紙

それは去る平成11年の10月2日(月曜日)読売新聞朝刊を見てのことです。第一面はシドニ-オリンピックの閉会式を、「21世紀聖火アテネ」の見出しで大きく伝えています。そして第二面、ちょうど金メダリスト高橋尚子さんの写真の真裏に、「銃弾におびえる親子」(パレスチナ自治区ガサ)の写真が掲載されていました。この写真の撮られた数秒後、少年は腹部に銃弾を受け死亡、父親も重体となりました。この紙面の表裏の組み合わせが意図されたものならば、絶妙な編集といえます。この落差、意外性の与える衝撃波は大きなものでした。

他でこのことについて、「しょせんオリンピックは、先進国のお祭りか」とのコメントを読みました。私は同時に、モクスワオリンピック参加拒否したときの政府の論理、「一階で戦争しているのに、二階でお祭り騒ぎをやるのか」を思い出していました。これらは俗論です。私たちの日常生活レベルから国際間のレベルまで、相対的なエネルギ-の相克から、様々な矛盾や不合理が生じます。その一点だけに心が囚われていると、いつまでも解決の糸口が見つけられないものです。それでは理想が何なのか、視点の転換ができると、ス-ット進むべき方向が見えてくることがあります。スポ-ツは人種・宗教・国家を超えて集うことのできる手段の一つです。もちろんオリンピック自体にも、過去にヒトラ-が戦争に利用したり(注)、ビジネスに利用したり、過度の国威発揚に利用したりという自己矛盾はあります。しかしそれでも、平和の祭典としてのオリンピックの果たす役割は大きいのです。私たち人類は一つの世界に生きているということ、世界にある貧困・暴力・差別は世界全体の問題であり、世界全体で背負うべきことなのです。その氣づきの機会の一つが、スポ-ツ(武道)・芸術であると思います。

「楽心館」 道場名の由来

 

そこで私たち楽心館(らくしんかん)のお話をします。この名前は私がある日、直感的に授かったものなのです。それは子供クラスの指導をしているときのことでした。約15年前のその日のことを、はっきり思い出すことができます。

当時は、私が指導に立ったばかりの頃でした。子供の指導に困っていました。今思えば、子供たちのもつエネルギ-に負けていたのです。そこで私はある日、ああしろ、こうしろと指示する指導をやめて、何事も「楽しいな、おもしろいな」と、自分自身がやって見せることを実践したのです。「楽しいな」といいながら受け身をやって見せたときのことです。すると子供たちが「私もやる!私もやる!」と、先を争うように、ものすごい勢いで前方回転受け身をやり始めたのです。私はこのとき、「これだっ!」と。私が楽しみ、子供と楽しむことこそ大切なのです。

道場を始めるとき、自然に「楽心館」というようになっていました。この世にもっとも美しきもの、それは楽しく遊ぶ子供たちの姿、そしてそれを見つめるお母さん・お父さんの眼差しです。だから楽しく子供が遊べる社会、それが理想の社会なのです。そして楽心館のささやかな試みで実現したいものは、そこにあります。

おかげさまで今年、この稽古活動も10周年になります。会員数も270名になろうとしています。しかし、目を内部に向けますと、会の理想と現実の乖離の厳しさを感じます。世相を反映して、子供たちの周囲に様々な問題(暴力・いじめ・心の問題等)が生じています。また武道の世界も、宗教界と同様のビジネス化・形骸化の弊害があります。合気道界に見られるのは、不和と嫉妬です。私はこのような問題に対して必要なのは、日々の楽しき稽古であることを知っています。

ミュンヘンオリンピックは、歴史上最悪のオリンピックとなりました。ゲリラが選手村に侵入、イスラエル選手を人質にとり、多くの若者が亡くなりました。時のオリンピック委員長、ブランデ-ジ氏は、「オリンピックハフ トウカンティニュ-」(オリンピックは続けなければならない)と、断固とした態度を表明しました。

もちろん、私の小さな試みがオリンピックと比べるべきものでないことを存じております。それでも、楽心館は私のオリンピックなのです。


(注)

1936年8月1日、ベルリンで第11回夏季五輪が開幕。ナチス・ドイツは史上初の聖火リレーと、レニ・フェンシュタール監督の公式記録映画「民族の祭典」を通じて国力誇示に利用した。

聖火リレーにはスパイが随行したとされ、この後ベルリンから戦車が逆送する形で攻め込むこととなった。平成12年からは64年前のことになります。


参考

1972年9月5日、武装パレスチナゲリラがミュンヘン五輪選手村のイスラエル選手団宿舎で2人を射殺、人質を取り、ゲリラ200人の釈放を要求。逃走した空港で、当時の西ドイツ特殊部隊が飛行機内へ突入。ゲリラとともに人質9人全員が犠牲になった。(読売新聞社資料より)