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壮年期 体験記
ただ、稽古終わりの一杯を
武田 隆
武田様には2004~2020(コロナ蔓延時)まで長くにわたって稽古に参加して頂きました。
武田 隆。還暦を目前にした59才から入門。毎日の終わりに居酒屋で仲間と一杯やるのを楽しみに生きている呑兵衛オヤジです。記者、放送作家の仕事を経て、還暦を期して卒業しようと計画。長年の浮世の垢を落とそうと合気道に通い始めたのですが、卒業計画は半ばで頓挫、留年状態のまま中野道場に通っています。そんなわけで私の場合
動機は(強くなりたい)でもないし、(健康になりたい)でもないし、(ダイエット)でもありません。
少々後智恵を交えて申し上げれば、普段出しゃばりがちな自分の頭を脇に置き、錆びついた体のセンサーを復活させてやりたかったのです。
そのための一番手近で確かなトレーニングは、競技スポーツやハードな運動でなく、武道、それも合気道だと考えた次第。楽心館の門を叩いたのは、私のような中高年にも門戸が開かれていたからです。それに、何と言っても、先生にお目にかかったときの直観ですね。
仕事人生で長年体を野ざらし状態にしてきたので、無理は効きませんが、マイペースで見てくださるので、稽古は辛くはありません。始めて一番嬉しいことは、師がいること。小学生に戻ったように愉しいですね。そして、稽古に入れば頭でジクジク悩む間もありませんから、頭は空っぽ。身体任せのシンプルな時間が心地いいです。そして、何といっても、呑兵衛の私とって稽古の後の一杯は、何ともいえません。体が喜んでるからでしょうね。今はそれが何よりの楽しみです。
「なぜその歳で合気道を?」と尋ねられ、「なんとなく成り行きで」と答えていますが、本音を申し上げれば、「よりよく生きたい」からです。年齢に関係なく誰でも「人としてよりよく生きたい」と思わない人はないでしょう。でも、都会での仕事中心の生活は、どうしても金や肩書に縛られがちで、経済原則だけを金科玉条とした(賢しらなふるまい)を強いられます。そこでは、9割は体より頭脳が主役。結果、世渡り上手になれるかもしれませんが、よりよく生きることとは方向がかなり違います。
私も職業柄、賢しらな雑文を書き散らして生計をたててきました。しかし、雑文であれ、生きた文章は、頭だけでは紡げません。頭だけの言葉は、死んだ言葉ばかりです。血の通った言葉で伝えるためには、身体感覚がキモです。でないと、家族にすら、肝心なことが伝わらない。結局、身勝手でズレた人間関係ばかり広がっていきます。それは、私が痛感してきたことです。
頭の中の薄汚れた物差しで仕事をこなし、暮らし向きを豊かにみせても、ちびた物差しでは厚みも深みもあるこの世界を測れるはずがありません。数値化され、定量化され、格付けされる世界は所詮平面上の地図にすぎないんですね。ですから、頭だけだと、地図だけはたくさん持ってるが、自分の位置を測るGPSがないのと同じです。頭で計量不可能なもの、花や土の匂いや手触りといった五感で深度を感知したり、人間関係の機微を見極めるには、自分の体の声に耳を貸すほかありません。そこにこそ、より確かなものがあり、人の面白みや深化があると思います。「人としてより良く生きる」は、むろん事後的なものですが、そのGPSを有しているのは、頭より体の方なんですね。
合気道初心者の私ですが、自分がどう生きたいのか、どうふるまいたいのか、体の声を感知するための技法、他者との共生能力を高める技法、心身のポテンシャルを高めるための技法・・それらを体系化したのが武道であり、楽心館合気道だと、勝手に解釈させていただいてる次第です。
合気道の術理の汎用性の高さは、経験して初めて気づくこと。稽古自体もさることながら、仕事であれ遊びであれ、家族や友人との人間関係であれ、実人生でこそ豊かに実をつけることを疑いません。
稽古で私が好きな瞬間は、全員が(何者かに向かって)礼をする稽古の冒頭です。(自分は在るべき時に、在るべき場所にいる)感じがとてもします。
楽心館合気道は自分に潜在しているGPSのスイッチをONにしてくれます。(すでに、人生手遅れの年齢になってさほど意義はないんじゃない?)と言われますが、中高年だからこそ味わえる世界もあるんだと申し上げます。私にとってその象徴が稽古帰りの一杯。ただその一杯を味わうために、楽心館へ通う呑兵衛の私です。