(一社)楽心館 氣と丹田の合気道会

「合気道」学ぶ目的/由来

合気道を学ぶ目的は「すべての武道/芸道とも共通する」

合気道を学ぶ目的は「すべての武道・芸道とも共通するもの」だと思います。「自分を生かし、人を生かす」道を歩むということで、難しくいえば「自己形成、社会形成への実践」の道を歩むということです。

「合気」と「道」に隠された名前の由来・意味

武田惣角先生・植芝盛平先生の広められた武道を合気系武道といいます。

特に植芝先生の流れのものを合気道といいます。植芝先生にとっての合気とは、『武産合気p.51』によると

「剣を使う代わりに、自分のいきの誠をもって、悪魔を祓(はらい)消すのである。つまり魄の世界を魂の世界にふりかえるのである。これが合気道のつとめである。魄(はく)が下になり、魂が上、表になる。それで合気道がこの世に立派な魂の花を咲かせ、魂の実を結ぶのである。そして経綸の主体となって、この世の至善至愛なる至誠にご奉公することなのです」

とありますが…神道の知識がなければ解釈できません

ここでは儒教や仏教で説明する心の状態、あり方と照らし合わせて、植芝先生の思想の理解をしていきます。
合気道は、「合気」と「道」とこの2つのものがあって合気道です。

「合気」

古代中国の思想に遡りますが、日本では日本刀を使った真剣勝負の鋩(きっさき)の争いのことを意味します。

それが武田惣角先生によって明治期に格闘術の理法として使われるようになりました。今日も合気武道とか合気柔術と呼ばれているものです。よく合気道の稽古の中で「剣の理合いをもって~」と説明されるのは、単に理合い・間合い・体捌き・打ち方が剣のものであるということを超えて、生死の問題に直結する真剣さのことを意味します
植芝盛平先生は、大変宗教心の篤(あつ)い方で、 「刀による真剣勝負」。この観念が入っていると人間の根元的なものに触れる
自分の命がそこでなくなってしまうということは生死の問題に直結する。だから合気の中には「生きる」という人生の根本を含み、合気の「合」は「愛」に通じる。万有愛護

(注1)の心に通じる道として「合気道」と名づけました。

「道」

先人達は、真剣勝負の初めは武術だけでしたが、勝つために「体」だけ訓練だけでなく「体の内」の訓練も続けていました
徳川の初めごろに、武道の中に仏教・神道・儒教・老荘が入りました。
島田虎之助(勝海舟の師)という剣術家は儒教を学んで
「<b>其れ剣は心なり。心正しからざれば、剣又正しからず。須(すべか)らく剣を学ばんと欲する者は、まず心より学べ</b>」と。いう言葉を残しています。こうなると「生き残る為の術」の武術ではな、「人生を誠実に生きる為の術」の武術に意味は広がっていきます。

 護身術から護神術 私たち「氣と丹田の合氣道会楽心館」は次のように合気道の理念を定めています。


「合気道は、養氣錬丹の合気の理法の修錬による人間形成の道である」

これは、小川忠太郎先生を初めとする諸先生方が定められた、日本剣道の理念から学ばせていただいたものです。

合気道を学ぶ目的(植芝盛平と楽心館の考え)

1「護身術」を学ぶ -実践に役に立つのか?- 体づくりをする

  知識、足腰の訓練、咄嗟に動ける体づくりをしていきます。合気道に実践稽古(試合)はありません。
型稽古の中に実践で使える技もありますが、「体を造る」事を目的としたものが多くあります。

合気道の達人として知られる塩田剛三は、弟子に「合気道で一番強い技はなんですか?」と聞かれた際に、「自分を殺しに来た相手と友達になることさ」と答えたと言われています。

私も「犯罪/喧嘩は巻き込まれた時点で敗け」 と考えています


武術は武者が戦場で生き残るために産み出されました。

現代人にとって戦場とは喧嘩ではなく、会社や家庭です。
試合で殴ってノックダウンさせたいのであれば、合気道を選ぶべきではないと思います。

これは考えの根底に「争いは対話で完結できる」という考えがあるためです。護身術の本質は人間形成、護心術です。

それでも襲われてしまった時に対応する為の武術です。相手を壊すまでを合気道に求めてはいけません。
あくまで興奮した相手を押さえ、その後対話する為の稽古です。

2「護心術」を学ぶ -心が生きる訓練をする- 人格形成をする

仕事でも日常でも何か大きな壁に向き合ったときのことを思い出してみてください。


本当に難しいのは、その壁の厚さ自体でしょうか?
自分の進む道を妨げているのは、その壁自体よりも、自分の心の弱さであることが多いです。
実際にはその壁に向き合う前に、自らの雑念妄想で氣力が半分に萎えていないでしょうか?


合気道の技を学ぶ過程も同じです。


相手に技が掛からずイライラして力技に移行してしまうと成功への遠回りになります。


心を静めて素直に相手の意見や師の意見を受け止める。言わんとしてることを理解、実践することを稽古の中で試行錯誤を繰り返して養っていきます。


技を身に着けていく過程は人間形成の道へと繋がります。 それは先述の護身術にも繋がっていきます。

3「護神術」               人生の形成

さて,話が大きくなってきました。3.4の目的は理想であり私自身も到底及びませんし、考える余裕もありません。楽心館で皆様に伝えられることは1.2のみになります。

ただ、深く宗教見地のある植芝盛平は到達していたのかもしれませ
人には生・老・病・死という絶体苦が立ちはだかります。

人はどうすればこの避けることのできない絶体苦を、穏やかな氣持ちで迎い入れることができるようになるのでしょうか。

死後の世界のことは、私はわかりません。

ただ、死ぬ瞬間の思いが、怒りや憎しみに満ちたものであれば、その人にとっての死は永遠の暗黒です
感謝や愛に満ちたものであれば、その人にとっての死は永遠の光の世界であるということです。
そのことを昔の宗教家は「天国」といったり、「極楽浄土」といったのだと思います。
「死ぬ瞬間の思い」とは、ごまかしの効かないものなのです。それまでの生き方を凝縮したものを、自分自身に見せつけられることになります。宗教のたとえ話の中に、「地獄の閻魔大王」、「最期の審判」というのがあり、生前の罪悪を審判し懲罰するといいます。
ここにいう大王や審判者は、実は自分自身なのです。

 

植芝先生ご自身のお話によると、次のようになります。

 

「この世は悉(ことごと)く天之浮橋なのです。ですから各人が、信仰の徳によって魂のひれぶりが出来(でき)るのです。表に魂が現れ、魄は裏になる。今迄は魄が表に現れていたが、内的神の働きが体を造化器官として、その上にみそぎを行なうのです。これが三千世界一度に開く梅の花ということです。これを合気では魂のひれぶりといい、又法華経の念彼観音力です。私はその最初の産屋(うぶや)となって立つのです」(武産合気p.67)

簡単に人間形成を話します。人間を大別すると三つに分けられるといいます。
最低を「人類」。人類は動物的に自分の欲望だけれを遂げれば、人なんか全然かまわないという類の人のことです。本能・感情想念のままに、動物的に生きる人のことです。

普通は「人間」。人間は名誉と利益を目標として生活します。本能・感情想念を車のアクセルに譬えると、知性・理性は車のブレ-キに譬えることができます。しかし、目的地がはっきりしない運転は、事故を起こしやすいものです

そこで、人間で結構だけれども、もう少し高度の目標を持って生きたい

 その目標を古来より神・仏・霊・聖そして宇宙意識といいます。このような悟性に目覚めた人を「道人」といいます。 

人間は生死を恐れる。道人は生死がありながらそれを超越するといいいます。

        ここまでが仏教でいう自利・「個人形成」・理の修行です。次はもう一つ社会形成・事の修行。個人形成と社会形成があって(理と事があって)初めて人間形成ということです。

        自分が楽しければそれを仲間にも分けてあげたくなる。これを合気道の精神に当てはめると、万有愛護・万物育成が社会形成です。

        個人形成は生死を超越したところの「覚」(かく)。覚(さと)るということです。社会形成とは、自分だけの覚りではなく、社会一切がということです。だから社会形成のほうが大切なのです。世界平和まで行くのです。

  

        楽心館では海外への活動?

植芝先生は

「この道(合気道)を進むには、まず自己を完成しなければなりません。国をよくし国を完成し、人類をよくし人類を完成し、地球をよくしていかなければなりません」(武産合気p.34)

「一国を侵略して一人を殺すことではなく、みなそれぞれに処を得させて生かし、世界大家族としての集いとなって、一元の営みの分身分業として働けるようにするのが、合気道の目標であり、宇宙建国の大精神であります。」(武産合気p.128)

とおっしゃっています。

(注1)「魂の緒をとぎすまし、そして大祓(おおはら)い祝詞を奏上すると、その道々より神々がお招きせぬとも、相参じ相集いて、八百万の神々がその人を守り、導いてくださるのです。山川草木、禽獣忠類にまで、その処を得さしめ、共に楽しむのが合気道であります。」(武産合気p.80)